たいせつでたいせつで1巻ちらり
冒頭はこんな感じになってます。リック君捏造甚大。
長めなので追記にしまっときますね~。
どうして、その声が聞こえたのだろう。
「……ーン…!」
ざわざわと流れる喧騒のただ中で、そんな、
かすかな声が。
「え」
「どうした?」
金色の髪を揺らし、彼はぴたりと足を止めた。
並んで歩いていた連れが軽い不審を向けて来る。しかしそれに応えず、少年は立ち止まったままわずかに頭を傾けた。
じっと耳を澄ます仕草を見て、連れは何とはなしに何かを察したのだろう。言葉を重ねることなく、怪訝と言うよりは不思議そうな顔をして彼を見ている。
「…って…
「コーン…っ、待って…!!」
「…!」
しなやかな全身が明らかに固い動揺を浮かべた。
「クオン?」
連れが今度こそ怪訝に呼びかけるのを意識すらせず、軋むような動作で首を動かす。
「今の…」
明らかに呼びかけのひびきを持った、しかし人の名前とも思えないその名詞と、
光が弾けるような、甲高いのにやわらかい声には、確かに覚えがある。
もう何年も前。
ここでない、遠い異国の地で。
まさか。
まさか。
そんなはずはない。
でも。
狼狽と不審と、期待を浮かべて碧い瞳が雑踏を見渡す。始めはのろのろと、次第にきょろきょろと。
ふと、人の流れがごつごつと滞る部分があることに気付いた。思わずそこを注視する。
「…?」
にょこっ、と。最初に小さな手が、次いで足が。大人たちの足の間からむりむりまけ出てきた。
それから、やっと顔が。
「!!」
記憶にあるよりも、少しだけ輪郭が伸びている。それでも明確に面影を残す黒い髪、小さな唇、大きな茶色の瞳。
あれは。
なつかしさと喜びが胸を叩く。そこに混じる小さな痛みを押しのけて、溢れる。
「キョーコちゃん…!!」
叫んだ瞬間には、クオンは少女に向かって駆け出していた。
「おいクオン!?」
連れの声が背を叩く。けれど構っていられるわけがない。衝動のままに足を動かす。
一心に手を伸ばす。拡げる。彼へと必死に駆けて来る小柄な少女へと。自分がこんなに夢中で走っている理由など考えもしなかった。
「キョーコちゃん!」
名前を呼ぶ。
「コーン!」
名前を呼ばれれば胸があたたかい。どうしてこんなに幸福なのだろう。
ああ、あと数歩で彼女に届く。
思った時。
がつ、と硬い音がした。
「あっ…」
慌てた声が上がり、少女の顔がふっと下へ沈む。
びったん!
思わず身を縮めてしまうような痛そうな衝突音。黒い髪の少女は、潰れたカエルよろしく路上にはりついていた。
「痛くない?キョーコちゃん」
感動の再会の一瞬…
になるはずだったのだけれど。
実際には、少女の手は彼に届かずに終わった。クオンしか見ていなかったキョーコは足元を疎かにし、歩道の敷石に躓いて見事にすっ転んでしまったのだ。
半顔を覆ったクオンは何か言いたそうな顔をしている連れと別れて少女を手近な公園に伴い、すりむいた膝小僧を洗ってやる。
気遣うと彼女は、涙を堪えてぷるぷるかぶりを振った。
「だいじょうぶ」
「本当?無理しなくていいんだよ」
更に追及しても、素直に痛いとは言わない。涙目で眉尻を下げているから本当は痛いのだとわかるが、彼女はそんなことを言ったら心配や迷惑をかけるからと思い決めているようだ。
その姿に、本当にキョーコだと心から納得する。そうだ、こういう、よく言って我慢と意思の強い、率直に言えば頑固なところのある子だった。
そのキョーコが、どうしてここアメリカにいるのだろうとか、
もしかして、また一人で泣く場所を探してたんだろうかとか、
俺のこと覚えててくれたんだねとか、
自分の本当の名前とか。
言いたいこと聞きたいことは山ほどある。あるのに、何から話していいかわからない。
キョーコも、同様に何も言わず俯いている。その姿に、もしかして自分が妖精じゃないとわかってがっかりしてるのかなとクオンは困った気分になった。
だって日本で出会った時、彼女は彼が妖精の王子だと信じ込んでとてもわくわく笑っていた。彼が自ら名乗ったことではないとは言え、嘘をついたと責められても返す言葉に詰まるところだ。
ただ、それでも、嫌われてはいない。
と、ずっと自分の服の裾をつかんだままの指先が教えてくれる。手を離したら彼が消えてしまうとでも思っているように、それが彼女にとって辛いことなのだと主張するように、キョーコはしっかりとクオンを捕まえている。
安堵して、それよりも手を繋ごうと優しく指を外そうとした。
「大丈夫…どこにも行かないよ」
笑いかけて、痛そうにぎゅっと顔を歪めるキョーコに気付く。
「手も怪我したの?見せて」
掌を開かせようとすると、彼女はさっと手を引っ込めて背中に隠してしまった。
「キョーコちゃん?」
「あ、えと。だい、じょうぶ、なの」
妙に硬い声で言うのが気になって、クオンはもう一度呼びかける。にこやかに。
「キョーコちゃん?」
重苦しく。
「…っ…」
ひき、と幼い顔をひきつらせながらも、キョーコはまだ首を振る。もう半分意地になっているようにも見えた。まったく、素直で優しいくせにどこまで頑固なのだろう。
だけど無駄だ。怪我をしている事実まで彼に隠すなんて許さない。
少年は長くしなやかな足を、無造作に一歩踏み出した。同時に素早く手を伸ばす。
少女の両手をつかまえ、前に出させた。
「いたい!」
強引に掌を開かせると、悲痛な悲鳴が上がった。しかしクオンが動作を凍りつかせたのは、そのせいではなかった。
小さな掌に、いっぱいに丸い火傷のあとが印されている。
「キョーコちゃん、これ…もしかして、タバコの…
「誰にやられたの!?」
「ち、違うの!」
少女の声が跳ね上がる。
「わたしがね、いけないの。ばかだから。だからしかられるの、当たり前なの。おじ…おとうさんは、悪くないのよ。わたしの、ためなの…」
必死な声がだんだん小さくなって行く。見る見る盛り上がる涙の粒に、クオンは愕然と立ち竦んだ。
「キョー…」
少女は彼が何か言うより先に、慌てた顔で茜に染まり始めた空に目をやる。
「あっ、私、もう帰らなきゃ!くらくなる前に帰らないとまた…」
言いかけてはっと口を噤んだ。
また。
そんな一語が、なんとおそろしいひびきを持つのだろう。
「キョーコちゃん…」
クオンは悪夢を見ている気分のまま、震える手を叱咤して前へと伸ばす。が、さっと身を翻した少女には届かなかった。
キョーコは彼に手を振って、公園の出口へ駆け出そうとする。
「じゃあね、コーン。また会えて、今でもきれいでうれしかった!」
微笑む頬から散る涙の滴。クオンは思わず呼び止めていた。
「まっ…待って、キョーコちゃん!」
しかしキョーコは足を止めない。小さくなって行く背中に、彼は必死で約束を投げた。
「あ…明日!明日また、同じくらいの時間にここで待ってるから!だから……」
また会おう。
一瞬振り返ったキョーコが、嬉しそうに微笑んだように見えた。彼女は変わっていない。と思い、その分だけ胸が痛む。
一体、何が起こっているのだろう。
幼友達の去った方角を見つめ、少年は自分の肺を宥めるようにそろそろと息を吐いた。
ざあ、と。
突風に揺らされた葉鳴りの音が不吉な予感を囁く。傾く陽を受けて立ち尽くしながら、クオンは言いよ
うのない不安に苛まれていた。
ふと、土を踏む足音を背後に聞く。
振り返ると、長身の青年がブルネットの髪を風になぶられていた。先ほど別れたはずの連れだ。何やら複雑な面持ちをしている。
「リック…」
「あー…なんか、わけあり、か?」
どうも、ずっと見ていたらしい。ほりほりと頬を掻く仕草が常に明快な彼らしくない。気を遣われているのだと知り、クオンは自分の混乱の中から苦笑を拾い上げた。
「わからない、けど…」
言いかけるとリックが軽く目を瞠る。
「お前がそんな顔するの、初めて見た」
「え」
「大切な子なんだな」
「え?あ、まあ…うん、そうだね…」
どんな顔だったんだ。曖昧な同意を返すクオンに、年長の連れはそれ以上言わずしきりに一人頷いている。
「そうか、なるほどなあ。そういう子がいるんで、ずっとああだったのか。意外と一途ってか、却って残酷ってか、いや単に鈍いのか…?」
「リック?」
ちらと横目を使われても、何が言いたいのかわからない。首を傾げるクオンの肩を、大きな手がぽむと叩いた。
「まあ、お前の気持ちもわからなくはない。あんな小さい子じゃ、手出すわけに行かないもんな。その一方でお前は思春期真っ盛りと来た」
「は?」
「それで欲求不満になったり、もしかすると罪の意識から他へ目を向けようとする、なんてこともあるかもしれん。けどなあクオン…
「適当な女の間フラフラしたって、結局満たされやしないだろ?自分の気持ちは、いつまでも偽れるものじゃないんだ」
「え、あ、うん?」
なぜか説教めいたことを言われる。戸惑い半分に頷くクオンの頭に、リックは長身を活かして手を伸ばして来た。
「今後は余所見なんかせずに、ちゃんとあの子の傍に腰を据えて成長を待ってやれよ。きっとお前の気持ちは通じるから。な」
わしわし撫で回されて、頭がこくこく揺れる。それが頷いているように見えたのか、リックは満足そうに口元を緩めた。
「大切なものは、間違えるなよ」
「う、ん。そう、だね…」
わけがわからないが、何か感得したような気がしなくもない。のろのろ肯定すると、相手は満足げに息を吐いた。
「よし」
それからリックは、ちょっと考え込むような目をしてから口を開く。
「確かに今の時点じゃロリコンくさいけどな、でも愛は年齢じゃないし、ちゃんと待てるくらいの強い思いならそれは愛だ。俺は、お前を応援してるぜ」
「あり、がとう?」
ぼんやり礼を述べるクオンに、彼は快活な笑顔を見せた。
「幸せになれよな!」
「あなた、妖精?」
突然かけられた声はともかく、その内容に彼は驚いた。振り返ると黒髪を短めのツインテールに結った小さな女の子が茂みを分け、陶然と彼を見つめている。頬に散る涙の粒と赤い目が、たった今まで泣いていたと雄弁に語っているのに。
「妖精…って…」
戸惑いをこぼすクオンに、
「だって!とってもきれいなんだもの!!お日様みたいにキラキラする髪で。それに目も、わたし、そんなにあおい青色はじめて見たわ!」
少女はうっとり言いながらとことこ近付いて来る。
「わたし、キョーコ。妖精さんのおなまえは?」
そんな風にして出会ったのだった。
父に連れられてひと夏を過ごした日本、京都の地で。
当時彼は10歳だったから、もう4年前のことになる。僅か数日をともに過ごした日々から自分はずいぶん身長も伸びたし、顔だって10歳と14歳じゃかなり印象が違うだろう。それでもあの子は、通りすがった瞬間に自分を見分けてくれたのだ…と思うと、何かこそばゆいような喜びを覚えた。
だけど…
キョーコちゃんは、今も幸せにはなれていないのだろうか。とクオンは小さく吐息をつく。
あの頃、わずか6歳でしかなかったと言うのにろくに親の愛情を受けられず、彼女はよく泣いていた。おかあさんがね…呂律の怪しくなる声がそれでも母を責める言葉だけは紡がないことに、自分が馬鹿なのだと繰り返す彼女に、彼は不思議な胸の痛みを覚えたものだった。
着替えもせずに自室のベッドに身を投げ出し、湧き上がり膨れ上がろうとする不安と懸念に胸を押さえる。
先刻の言動から、多少の推測は可能だった。
たぶん、母親が再婚でもして、それでアメリカに越して来たのではないか。ところが、その義父は…
「…っ!」
今頃どうしているのだろう。泣いていないだろうか。また一人で。
明日、来てくれるだろうか。どのくらい会っていられるのだろう。
どうしてこんなに気にかかるのか、と思った。いつもあの子だ。あの子だけ。他の誰も、こんなに心配したことなんかない。
クオンは胸元をつかんだ自分の手を見下ろす。途端に、小さな手の惨状が目に蘇った。ろくに手当てもされていなかった…
身を起こし、自室を出る。明日会えたら、手当てしてあげたい。救急箱はキッチンにあったはず。
階段の灯りもつけずに階下へ降り、右手へ折れる。ダイニングから奥のキッチンに入った。手探りで電灯をつけ、眩しさに数度瞬く。左奥の戸棚の上に目的のものが見えた。
救急箱を取ってテーブルに降ろそうとしたところで、入り口で足音がした。
「…ケガをしたのか?クオン。また、ケンカか…」
静かな、しかし心配そうな声で問うのは父クー・ヒズリ。
クオンは無視しようとしかけて、一瞬動作を止めた。親の愛を受けられないキョーコ。親の愛を拒む自分。世の中はひどく不公平だ。
「違うよ…俺じゃない」
ぽつりと言った。父の肩がほっとしたように輪郭を緩める。
「友達が、怪我をしてて。明日でも、手当てをしてあげられたらって…」
クオンが続けると、クーは今度は気遣わしげに眉を寄せた。
「その子は、家で手当てをしてもらえないのか…?
「……」
わからない。でもたぶん。なぜだかそう言えず、クオンは唇を噛む。自分は子供だ、と強く思った。どう判断したらいいのかわからない。あの子のために、何かできることはないんだろうか。こんな、傷の手当てだけじゃなく…もっと、本当に守れるようなことは。
「とう、さん…」
演技者となることを選んでからは事あるごとにその偉大な背中を見せ付けられ、年々に自分が影の中に押し遣られて行く気がしていた。だから、あれほど慕っていた父に自分から話しかけることさえなくなっていたけれど。
クオンはまっすぐに父の瞳を見上げて呼びかける。クーが軽く両目を見開いた。
「明日の夕方、家にいられない?」
「え…」
「友達を、連れてくるから。相談したいことが、あるんだ…」
自分のためならけして吐かなかっただろう言葉。けれど仕方ない。自分の身ひとつ処せずにいる子供には、彼女を守る方法がないのだ。
「お前が…相談?俺に…
「そう…か!」
クーが大きく破顔した。心の底から嬉しそうに。
「かわいい息子の頼みとなれば、もちろん否やはない!大丈夫、マネージャーに泣いてもらおう!」
それは大丈夫と言うのだろうか。クオンは思ったが余計なツッコミは入れずに頷いた。
「ありがとう」
短い言葉に、父は再び瞠目する。その整った顔立ちにゆるゆると微笑をのぼし…慈愛に満ちた声で、彼は息子に言った。
「大事な人、なんだな」
また言われた、とクオンは目を瞬く。
しかも、その発言に際してどうして友人も父も揃ってめでたげな顔をするのか。
確かにキョーコは大切な子で、考えてみれば今誰より大事にしたい人なのだけれど。
父との話を切り上げて自室に戻りながら、少年はつらつらと考えた。磨かれた手すりを無意識に繰って階段を上り、段が終われば浮いた手を軽く顎に当てる。
自分の部屋に辿り着いてドアを開け、慣れた距離感でベッドに直行、腰を下ろす。
スニーカーを脱ぐ。左、それから右。まとめてぽいと放り投げ、後ろにばふんと倒れ込んだ。
まったく、と思う。
リックは何やら、クオンが彼女と長続きしないことを言っていたようだけれど、それがキョーコとどう関係するのか。そう言えば、愛がどうとかも言っていた。
父に至っては、まるで息子の初恋を見守るような温かい眼差しを…
あれ、と起き上がった。
自分の初恋はいつで、誰だった?いくつかの顔を思い返すが、なぜかぴんと来るものがない。脳裏を繰り返し過ぎるのは、数年前の夏で…
え。
待て。
どうして。
これは。
「はあ!!?」
広壮を誇るヒズリ邸の一室に上がった奇声は、夜気を奇妙にぬるく染めた。
長めなので追記にしまっときますね~。
どうして、その声が聞こえたのだろう。
「……ーン…!」
ざわざわと流れる喧騒のただ中で、そんな、
かすかな声が。
「え」
「どうした?」
金色の髪を揺らし、彼はぴたりと足を止めた。
並んで歩いていた連れが軽い不審を向けて来る。しかしそれに応えず、少年は立ち止まったままわずかに頭を傾けた。
じっと耳を澄ます仕草を見て、連れは何とはなしに何かを察したのだろう。言葉を重ねることなく、怪訝と言うよりは不思議そうな顔をして彼を見ている。
「…って…
「コーン…っ、待って…!!」
「…!」
しなやかな全身が明らかに固い動揺を浮かべた。
「クオン?」
連れが今度こそ怪訝に呼びかけるのを意識すらせず、軋むような動作で首を動かす。
「今の…」
明らかに呼びかけのひびきを持った、しかし人の名前とも思えないその名詞と、
光が弾けるような、甲高いのにやわらかい声には、確かに覚えがある。
もう何年も前。
ここでない、遠い異国の地で。
まさか。
まさか。
そんなはずはない。
でも。
狼狽と不審と、期待を浮かべて碧い瞳が雑踏を見渡す。始めはのろのろと、次第にきょろきょろと。
ふと、人の流れがごつごつと滞る部分があることに気付いた。思わずそこを注視する。
「…?」
にょこっ、と。最初に小さな手が、次いで足が。大人たちの足の間からむりむりまけ出てきた。
それから、やっと顔が。
「!!」
記憶にあるよりも、少しだけ輪郭が伸びている。それでも明確に面影を残す黒い髪、小さな唇、大きな茶色の瞳。
あれは。
なつかしさと喜びが胸を叩く。そこに混じる小さな痛みを押しのけて、溢れる。
「キョーコちゃん…!!」
叫んだ瞬間には、クオンは少女に向かって駆け出していた。
「おいクオン!?」
連れの声が背を叩く。けれど構っていられるわけがない。衝動のままに足を動かす。
一心に手を伸ばす。拡げる。彼へと必死に駆けて来る小柄な少女へと。自分がこんなに夢中で走っている理由など考えもしなかった。
「キョーコちゃん!」
名前を呼ぶ。
「コーン!」
名前を呼ばれれば胸があたたかい。どうしてこんなに幸福なのだろう。
ああ、あと数歩で彼女に届く。
思った時。
がつ、と硬い音がした。
「あっ…」
慌てた声が上がり、少女の顔がふっと下へ沈む。
びったん!
思わず身を縮めてしまうような痛そうな衝突音。黒い髪の少女は、潰れたカエルよろしく路上にはりついていた。
「痛くない?キョーコちゃん」
感動の再会の一瞬…
になるはずだったのだけれど。
実際には、少女の手は彼に届かずに終わった。クオンしか見ていなかったキョーコは足元を疎かにし、歩道の敷石に躓いて見事にすっ転んでしまったのだ。
半顔を覆ったクオンは何か言いたそうな顔をしている連れと別れて少女を手近な公園に伴い、すりむいた膝小僧を洗ってやる。
気遣うと彼女は、涙を堪えてぷるぷるかぶりを振った。
「だいじょうぶ」
「本当?無理しなくていいんだよ」
更に追及しても、素直に痛いとは言わない。涙目で眉尻を下げているから本当は痛いのだとわかるが、彼女はそんなことを言ったら心配や迷惑をかけるからと思い決めているようだ。
その姿に、本当にキョーコだと心から納得する。そうだ、こういう、よく言って我慢と意思の強い、率直に言えば頑固なところのある子だった。
そのキョーコが、どうしてここアメリカにいるのだろうとか、
もしかして、また一人で泣く場所を探してたんだろうかとか、
俺のこと覚えててくれたんだねとか、
自分の本当の名前とか。
言いたいこと聞きたいことは山ほどある。あるのに、何から話していいかわからない。
キョーコも、同様に何も言わず俯いている。その姿に、もしかして自分が妖精じゃないとわかってがっかりしてるのかなとクオンは困った気分になった。
だって日本で出会った時、彼女は彼が妖精の王子だと信じ込んでとてもわくわく笑っていた。彼が自ら名乗ったことではないとは言え、嘘をついたと責められても返す言葉に詰まるところだ。
ただ、それでも、嫌われてはいない。
と、ずっと自分の服の裾をつかんだままの指先が教えてくれる。手を離したら彼が消えてしまうとでも思っているように、それが彼女にとって辛いことなのだと主張するように、キョーコはしっかりとクオンを捕まえている。
安堵して、それよりも手を繋ごうと優しく指を外そうとした。
「大丈夫…どこにも行かないよ」
笑いかけて、痛そうにぎゅっと顔を歪めるキョーコに気付く。
「手も怪我したの?見せて」
掌を開かせようとすると、彼女はさっと手を引っ込めて背中に隠してしまった。
「キョーコちゃん?」
「あ、えと。だい、じょうぶ、なの」
妙に硬い声で言うのが気になって、クオンはもう一度呼びかける。にこやかに。
「キョーコちゃん?」
重苦しく。
「…っ…」
ひき、と幼い顔をひきつらせながらも、キョーコはまだ首を振る。もう半分意地になっているようにも見えた。まったく、素直で優しいくせにどこまで頑固なのだろう。
だけど無駄だ。怪我をしている事実まで彼に隠すなんて許さない。
少年は長くしなやかな足を、無造作に一歩踏み出した。同時に素早く手を伸ばす。
少女の両手をつかまえ、前に出させた。
「いたい!」
強引に掌を開かせると、悲痛な悲鳴が上がった。しかしクオンが動作を凍りつかせたのは、そのせいではなかった。
小さな掌に、いっぱいに丸い火傷のあとが印されている。
「キョーコちゃん、これ…もしかして、タバコの…
「誰にやられたの!?」
「ち、違うの!」
少女の声が跳ね上がる。
「わたしがね、いけないの。ばかだから。だからしかられるの、当たり前なの。おじ…おとうさんは、悪くないのよ。わたしの、ためなの…」
必死な声がだんだん小さくなって行く。見る見る盛り上がる涙の粒に、クオンは愕然と立ち竦んだ。
「キョー…」
少女は彼が何か言うより先に、慌てた顔で茜に染まり始めた空に目をやる。
「あっ、私、もう帰らなきゃ!くらくなる前に帰らないとまた…」
言いかけてはっと口を噤んだ。
また。
そんな一語が、なんとおそろしいひびきを持つのだろう。
「キョーコちゃん…」
クオンは悪夢を見ている気分のまま、震える手を叱咤して前へと伸ばす。が、さっと身を翻した少女には届かなかった。
キョーコは彼に手を振って、公園の出口へ駆け出そうとする。
「じゃあね、コーン。また会えて、今でもきれいでうれしかった!」
微笑む頬から散る涙の滴。クオンは思わず呼び止めていた。
「まっ…待って、キョーコちゃん!」
しかしキョーコは足を止めない。小さくなって行く背中に、彼は必死で約束を投げた。
「あ…明日!明日また、同じくらいの時間にここで待ってるから!だから……」
また会おう。
一瞬振り返ったキョーコが、嬉しそうに微笑んだように見えた。彼女は変わっていない。と思い、その分だけ胸が痛む。
一体、何が起こっているのだろう。
幼友達の去った方角を見つめ、少年は自分の肺を宥めるようにそろそろと息を吐いた。
ざあ、と。
突風に揺らされた葉鳴りの音が不吉な予感を囁く。傾く陽を受けて立ち尽くしながら、クオンは言いよ
うのない不安に苛まれていた。
ふと、土を踏む足音を背後に聞く。
振り返ると、長身の青年がブルネットの髪を風になぶられていた。先ほど別れたはずの連れだ。何やら複雑な面持ちをしている。
「リック…」
「あー…なんか、わけあり、か?」
どうも、ずっと見ていたらしい。ほりほりと頬を掻く仕草が常に明快な彼らしくない。気を遣われているのだと知り、クオンは自分の混乱の中から苦笑を拾い上げた。
「わからない、けど…」
言いかけるとリックが軽く目を瞠る。
「お前がそんな顔するの、初めて見た」
「え」
「大切な子なんだな」
「え?あ、まあ…うん、そうだね…」
どんな顔だったんだ。曖昧な同意を返すクオンに、年長の連れはそれ以上言わずしきりに一人頷いている。
「そうか、なるほどなあ。そういう子がいるんで、ずっとああだったのか。意外と一途ってか、却って残酷ってか、いや単に鈍いのか…?」
「リック?」
ちらと横目を使われても、何が言いたいのかわからない。首を傾げるクオンの肩を、大きな手がぽむと叩いた。
「まあ、お前の気持ちもわからなくはない。あんな小さい子じゃ、手出すわけに行かないもんな。その一方でお前は思春期真っ盛りと来た」
「は?」
「それで欲求不満になったり、もしかすると罪の意識から他へ目を向けようとする、なんてこともあるかもしれん。けどなあクオン…
「適当な女の間フラフラしたって、結局満たされやしないだろ?自分の気持ちは、いつまでも偽れるものじゃないんだ」
「え、あ、うん?」
なぜか説教めいたことを言われる。戸惑い半分に頷くクオンの頭に、リックは長身を活かして手を伸ばして来た。
「今後は余所見なんかせずに、ちゃんとあの子の傍に腰を据えて成長を待ってやれよ。きっとお前の気持ちは通じるから。な」
わしわし撫で回されて、頭がこくこく揺れる。それが頷いているように見えたのか、リックは満足そうに口元を緩めた。
「大切なものは、間違えるなよ」
「う、ん。そう、だね…」
わけがわからないが、何か感得したような気がしなくもない。のろのろ肯定すると、相手は満足げに息を吐いた。
「よし」
それからリックは、ちょっと考え込むような目をしてから口を開く。
「確かに今の時点じゃロリコンくさいけどな、でも愛は年齢じゃないし、ちゃんと待てるくらいの強い思いならそれは愛だ。俺は、お前を応援してるぜ」
「あり、がとう?」
ぼんやり礼を述べるクオンに、彼は快活な笑顔を見せた。
「幸せになれよな!」
「あなた、妖精?」
突然かけられた声はともかく、その内容に彼は驚いた。振り返ると黒髪を短めのツインテールに結った小さな女の子が茂みを分け、陶然と彼を見つめている。頬に散る涙の粒と赤い目が、たった今まで泣いていたと雄弁に語っているのに。
「妖精…って…」
戸惑いをこぼすクオンに、
「だって!とってもきれいなんだもの!!お日様みたいにキラキラする髪で。それに目も、わたし、そんなにあおい青色はじめて見たわ!」
少女はうっとり言いながらとことこ近付いて来る。
「わたし、キョーコ。妖精さんのおなまえは?」
そんな風にして出会ったのだった。
父に連れられてひと夏を過ごした日本、京都の地で。
当時彼は10歳だったから、もう4年前のことになる。僅か数日をともに過ごした日々から自分はずいぶん身長も伸びたし、顔だって10歳と14歳じゃかなり印象が違うだろう。それでもあの子は、通りすがった瞬間に自分を見分けてくれたのだ…と思うと、何かこそばゆいような喜びを覚えた。
だけど…
キョーコちゃんは、今も幸せにはなれていないのだろうか。とクオンは小さく吐息をつく。
あの頃、わずか6歳でしかなかったと言うのにろくに親の愛情を受けられず、彼女はよく泣いていた。おかあさんがね…呂律の怪しくなる声がそれでも母を責める言葉だけは紡がないことに、自分が馬鹿なのだと繰り返す彼女に、彼は不思議な胸の痛みを覚えたものだった。
着替えもせずに自室のベッドに身を投げ出し、湧き上がり膨れ上がろうとする不安と懸念に胸を押さえる。
先刻の言動から、多少の推測は可能だった。
たぶん、母親が再婚でもして、それでアメリカに越して来たのではないか。ところが、その義父は…
「…っ!」
今頃どうしているのだろう。泣いていないだろうか。また一人で。
明日、来てくれるだろうか。どのくらい会っていられるのだろう。
どうしてこんなに気にかかるのか、と思った。いつもあの子だ。あの子だけ。他の誰も、こんなに心配したことなんかない。
クオンは胸元をつかんだ自分の手を見下ろす。途端に、小さな手の惨状が目に蘇った。ろくに手当てもされていなかった…
身を起こし、自室を出る。明日会えたら、手当てしてあげたい。救急箱はキッチンにあったはず。
階段の灯りもつけずに階下へ降り、右手へ折れる。ダイニングから奥のキッチンに入った。手探りで電灯をつけ、眩しさに数度瞬く。左奥の戸棚の上に目的のものが見えた。
救急箱を取ってテーブルに降ろそうとしたところで、入り口で足音がした。
「…ケガをしたのか?クオン。また、ケンカか…」
静かな、しかし心配そうな声で問うのは父クー・ヒズリ。
クオンは無視しようとしかけて、一瞬動作を止めた。親の愛を受けられないキョーコ。親の愛を拒む自分。世の中はひどく不公平だ。
「違うよ…俺じゃない」
ぽつりと言った。父の肩がほっとしたように輪郭を緩める。
「友達が、怪我をしてて。明日でも、手当てをしてあげられたらって…」
クオンが続けると、クーは今度は気遣わしげに眉を寄せた。
「その子は、家で手当てをしてもらえないのか…?
「……」
わからない。でもたぶん。なぜだかそう言えず、クオンは唇を噛む。自分は子供だ、と強く思った。どう判断したらいいのかわからない。あの子のために、何かできることはないんだろうか。こんな、傷の手当てだけじゃなく…もっと、本当に守れるようなことは。
「とう、さん…」
演技者となることを選んでからは事あるごとにその偉大な背中を見せ付けられ、年々に自分が影の中に押し遣られて行く気がしていた。だから、あれほど慕っていた父に自分から話しかけることさえなくなっていたけれど。
クオンはまっすぐに父の瞳を見上げて呼びかける。クーが軽く両目を見開いた。
「明日の夕方、家にいられない?」
「え…」
「友達を、連れてくるから。相談したいことが、あるんだ…」
自分のためならけして吐かなかっただろう言葉。けれど仕方ない。自分の身ひとつ処せずにいる子供には、彼女を守る方法がないのだ。
「お前が…相談?俺に…
「そう…か!」
クーが大きく破顔した。心の底から嬉しそうに。
「かわいい息子の頼みとなれば、もちろん否やはない!大丈夫、マネージャーに泣いてもらおう!」
それは大丈夫と言うのだろうか。クオンは思ったが余計なツッコミは入れずに頷いた。
「ありがとう」
短い言葉に、父は再び瞠目する。その整った顔立ちにゆるゆると微笑をのぼし…慈愛に満ちた声で、彼は息子に言った。
「大事な人、なんだな」
また言われた、とクオンは目を瞬く。
しかも、その発言に際してどうして友人も父も揃ってめでたげな顔をするのか。
確かにキョーコは大切な子で、考えてみれば今誰より大事にしたい人なのだけれど。
父との話を切り上げて自室に戻りながら、少年はつらつらと考えた。磨かれた手すりを無意識に繰って階段を上り、段が終われば浮いた手を軽く顎に当てる。
自分の部屋に辿り着いてドアを開け、慣れた距離感でベッドに直行、腰を下ろす。
スニーカーを脱ぐ。左、それから右。まとめてぽいと放り投げ、後ろにばふんと倒れ込んだ。
まったく、と思う。
リックは何やら、クオンが彼女と長続きしないことを言っていたようだけれど、それがキョーコとどう関係するのか。そう言えば、愛がどうとかも言っていた。
父に至っては、まるで息子の初恋を見守るような温かい眼差しを…
あれ、と起き上がった。
自分の初恋はいつで、誰だった?いくつかの顔を思い返すが、なぜかぴんと来るものがない。脳裏を繰り返し過ぎるのは、数年前の夏で…
え。
待て。
どうして。
これは。
「はあ!!?」
広壮を誇るヒズリ邸の一室に上がった奇声は、夜気を奇妙にぬるく染めた。
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