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フォルトゥナタ(43)

 「見送りはいいよ」
 離れられなくなりそうだからね、と笑うクオンティヌスを、キョーコは寝台の中からじっとりねめ上げた。
 二人でいる寝室には奴隷も入れないことになっている。身支度を整える夫を手伝うべきところだが、明け方まで散々構い倒された体は指一本動かすのも辛いほどに重い。
 それでもどうにか身を起こそうとするのへ、理解あるのか気が咎めるのか、夫はいいから横になっておいでと手を添えた。
 「ご無事で…」
 せめてもと言えば、礼の言葉と共に短い口づけが降って来る。
 「さて、もう行かないと」
 名残惜しげに妻の頬を撫でてから、騎士はマントを翻して戸口へ向かった。その背に、
 (私が行くまで)
 心の中でだけ、キョーコは付け加えるのだった。




 約束の場所へ行く。
 興奮気味の人々でごった返す広場の片隅に、奴隷商人マイウスは既に来ていて、ゆったりとロバの鼻面を撫でていた。意外に優しい手つきに驚いていると、男がひょいと振り返る。
 「ああ、おはよう。
 「…って、朝っぱらからえらく疲れてるようだが大丈夫かね」
 近付く間に指摘され、キョーコは力ない笑みを返した。
 だってしかたないだろう。君を備蓄しなきゃだの言って一晩中一睡も許されずに揺すぶられた後、大急ぎで家の中のことを細々ヨロヨロ片付けてパン屋ともども信頼できる奴隷たちに託し、店に隠しておいた荷物を引っ張り出してここへ来たのだ。元気一杯とは行かないに決まっている。
 なんでクオンティヌス様はあんなに元気なの、ずるい、と思うのはもちろん胸のうち、彼女は溜め息を噛んで微笑み直した。
 「お待たせしてすみません」
 詫びると商人は時間通りだよと笑う。精密な時計などないこの時代、人々の時間感覚は鷹揚なものだ。
 「ほら」
 と手綱を手渡され、キョーコは大きな目を瞬いた。このロバを、自分が引いていけという意味だろうか。
 おとなしそうだし別にいいけど、と思っていると、商人は意外なことを言った。
 「そいつに、あんたの荷物載せな」
 「え」
 「重い荷物しょって何日も歩いたことなんかないだろ?最初のうちは空いた荷車にも乗せてやれるが、塞がって来たらそうも行かないからな。そいつに乗る練習もした方がいいだろう」
 「荷車って」
 奴隷運搬用の、か。空いているとかいないとかでなく乗りたくない、とキョーコは思った。
 それでも、思ってもみなかったことに一応労ってくれているらしい。まじまじとマイウスの顔に見入ってしまった。
 「意外と親切なんですね」
 ついポロリと零すと苦笑が返る。
 「却って失礼だろ。
 「まあ別に、預かった支度金で買ったんだから俺の懐は痛んでないからな。ちょっとこう、アレだ、感動したってえか、旦那のために命張る女なんての初めて見たし」
 奴隷商は何やらぶつぶつ言い始めた。
 「うちのなんざ、クレメンティア(仁慈)なんて名前だけで、欲は深いわ食い意地は張ってるわ寝汚いわ見栄っ張りだわ始終文句ばっかり並べ立てるわ…」
 だんだん愚痴になって行くのでキョーコは困ってしまった。そのうちにマイウスが我に返り、ごほんと咳払いをする。
 「とにかく、じきに出発だからな。早いとこ準備済ませてくれ」
 ぴっと指を突きつけて、彼はさっさと踵を返した。向かう方向にもロバが繋いであるので、たぶん彼の分なのだろう。旅は慣れているだろうけれど、さすがに特殊スキルとなる乗馬まではしないようだ。
 夫の顔を思い出してしまった。やっぱり見送りはしたかったなと思ったけれど、しなかったのではなくできなかったわけで。
 嘆息を空に放れば、だいぶ日も高くなっている。クオンティヌスの率いるミリアリア(千人隊)はもう出発しただろうか。
 石畳の街道を行く“軍隊歩調”の足音を聞いた気がして、彼女は少し眉根を寄せた。さて、どうすれば彼の隊の近くに行けるだろう?
 雇われの身では行動に制限もあるが、そうしなければそもそも軍団に従う旅にも出られなかった。考え込むところへ、マイウスに大声で呼ばれた。
 「もういいか?そろそろ行くぞ、イリストゥリス様の隊が出る頃だ」
 彼女は一瞬目を瞠り、礼の代わりに大きく頷いた。
 「はい!」





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フォルトゥナタ(42)

 「…はあ…」
 奴隷商の声は、呆れを通り越して感嘆に近かった。
 「またエライこと考えるもんだな、若い娘が…恋ゆえの情熱ってやつかい?」
 「こっ」
 真っ赤になったキョーコは、うろうろと視線をさ迷わせたあと俯いた。
 「知りませんよ、そんなの…理由なんて何でもいいじゃないですか。大切なんですよ、いけませんか」
 「誰もそんなことは言ってないって」
 男は苦笑しながら片手を振る。
 「旦那をそこまでして守ろうなんざ見上げた心意気だ。イリストゥリス様も男冥利に尽きるってやつだなあ」
 シビアな職業に就いているがそこはローマ人ということか、商人は自分の顎を撫で撫で言った。むふーん、とか鼻息を噴いているのがどうにも羞恥を誘い、パン職人は顔も上げられない。
 「で…でっ、ど、うなんですか」
 俯いたままやっと促すと、奴隷商はうーんと唸って腕を組む。
 「そうだなあ…連れてってやりたい気もするが」
 「無理ですか…」
 「Promissa cadunt in debitum(約束は負債に属す)」
 「Praemia virtutis honeres(名誉は勇気の報酬)」
 低い呟きにぽんと返すと、相手は目を見開いてまじまじ見返して来る。
 「ふうん…」
 「なんですか」
 「いや、なかなか頭が回るんだなと思って」
 「それ、却って失礼ですよ?」
 「おっと、そりゃ悪かった」
 奴隷商は降参のポーズをして、ところでと話を変えた。
 「はい?」
 「あんた、もしかして読み書きできるかい」
 「できますが…」
 「計算は」
 「自分で商売する程度には」
 「ギリシャ語は?」
 「ある程度なら」
 人に教えるレベルを普通そうは言わないが、キョーコは慎み深く答えておく。これはもしや風向きが変わったか、と希望が生まれるのをどうしようもなかった。
 「うーん…そうだな…」
 果たして商人はうんうん唸りだしている。
 「料理人で読み書き計算ができてギリシャ語までとなると、確かにお得な人材なんだが…なんだが………!」
 もう一押し。キョーコの目が光った。
 「ちなみに、お裁縫もできます」
 「ううっ」
 「お給料要りません」
 「!」
 ぽか、と奴隷商の口が開いた。
 「…いやしかし、そのかわり好き勝手に辞めちまうんじゃないのか?」
 「そうですね…状況次第では必ずしも否定できませんが、その時にも絶対に引継ぎは済ませてからにします」
 「うう……」
 男は、やや薄くなったつむじを見せて項垂れる。キョーコの勝利だった。






 
 
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フォルトゥナタ(41)

 フォルムへ続く道を、キョーコはとぼとぼと歩いている。手にした荷物は、先の方途のつかない身には実際以上に重く感じられた。あの皇孫が、子供なりに配慮してくれた証であるから粗略には扱えないし扱う気もないけれど。
 「なにか方法はないかしら…」
 金貨の袋を別の布に包んでしっかりと抱え、彼女は慣れた道のりを辿る。今日は教師としての収入を回収する日だから多少時間の融通は利くけれど、帰りがあまり遅くなればクオンティヌスが心配するだろう。行動するのなら早くしなければ。
 重い溜め息が出る。
 この頃はどうも綺羅星のような貴顕に接する機会が多かったから、なにか感覚が狂っていたかもしれない。自分の手に力などなく、望みと現実との間はあまりにもかけ離れているのに。
 それでも、とキョーコは心中に拳を握る。
 諦められない。クオンティヌスの生命を脅かすものから、彼を守りたい。
 いざとなれば単身で軍を追うことも視野に入れるべきか、と彼女は不安とともに考えた。旅が安全な時代ではない。まして女一人では…だけど。
 いつの間にかフォルムの門前まで来ていて、ふと旅支度の下見でもしようかという気になる。
 足が止まってせいで、人にぶつかった。
 「あ」
 少しよろけたがどうにか踏みとどまり、すみませんと顔を上げたところで彼女は目を瞬く。気をつけてくれと言いかけた相手も同じような表情だ。
 それは、去年関わったことのある初老の奴隷商だった。
 「こりゃまた…久しぶりじゃないか、お嬢さん」
 「…ご無沙汰しています」
 挨拶する口も惜しいけれど、ただ心のままに振舞っていては世の中渡って行けない。あまり表情もなくそう言うと、奴隷商はそうと悟ったようで眉尻を下げて笑った。
 「元気そうで何よりだ。あの兄ちゃんはどうしてる?」
 「知りません…あ」
 続きそうな会話を打ち切ろうと冷たい声を出したキョーコだが、そこでふと手の中の重みを思い出す。もしやこの男なら、一般商店ではとても出せない高額貨幣の両替を頼めはしないだろうか。
 「?」
 突然まじまじと見たために軽く驚いたらしく、商人は怪訝そうに見返して来た。
 「あの…ええと、少しお願いがあるんですが」
 切り出したキョーコに、不思議そうな声が返される。
 「俺に?そりゃまたどういう風の吹き回しだ?」
 だんだん面白がるように言いながら彼は、じゃあと近くのポピーナへ彼女を促した。



 「両替、ねえ」
 「はい。手数料はお支払いしますので」
 「なんでまた金貨なんぞ…ってああ、そう言えばあんたは有名な料理人なんだって噂で聞いたな」
 お湯割りのワインを舐め、奴隷商は記憶を辿る目をした。
 「有名、ってほどじゃないと思いますけど…まあ、料理人を務めることも、あります」
 「それで金銭感覚のないお貴族さまに金貨で報酬貰っちまった、とかそんなかい?」
 「まあ…そんなところです」
 だいぶ嘘だが一部合っていなくもない。目を瞑ることにして、キョーコはそろりと頷いた。
 「ふーん…まあいいけどね。俺も軍団の東征にくっついてくから、金貨の準備してるところだし」
 「え」
 軍団に、?弾かれたように顔を上げるキョーコの様子を誤解したようだ。商人は苦笑を浮かべて肩を竦める。
 「商品の調達、だよ。戦争捕虜の売買にね」
 頭の片隅に、嫌悪に似た感情がかすめる。けれど、もしやチャンスではないだろうかという声がそれを圧倒した。もし、その商旅に同行できれば。
 「…あの!」
 突然顔を引き締めたキョーコに身を乗り出され、奴隷商はがたりと動いたテーブルを慌てて押さえた。








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フォルトゥナタ(40)

 「ふわあ…」
 通された部屋の内装を、キョーコはぽかんと口を開けたまま見回す。
 白い壁に繊細な薄布が何枚も掛けまわされてやわらかな陰を作り、白大理石の柱に刻まれた女神像の背後を飾る。
 基調となっている色はアクキガイの毒を処理した古代紫だ。金の20倍の価値を持つことさえあるという染料は、よほどの財力権力を持つ者にしか使うことができない。のちの東ローマ‐ビザンティン帝国において、皇帝家の色として他には禁じられることになる色だった。
 という次第で、ユリウス家に出入り・起居するキョーコにとっても珍しい色彩なのだが、それもむべなるべし、いまキョーコのいるここは、王宮の奥に秘された後宮内の一室だった。
 訪ねた相手は一度会っただけの皇孫マリア姫、しかし他に頼る先がなく意を決してやって来たものだ。
 だってクオンティヌス様の心配仲間だし…とまだ着慣れない上等のストラの裾をいじり、彼女は気後れを逃がそうとした。勢いで来てはみたものの、時間と共に冷静になる頭には、迷惑の二文字がにぶく輝く。
 やっぱり帰ろうかと立ち上がりかけたところで、背後の扉が低く軋んだ。
 侍女の手で左右に分けられた扉の中央を、小さな皇女が両手を拡げて駆け抜けてくる。
 「お姉様っ」
 「えっ?」
 どーん、と飛び付かれてキョーコは少しよろめいたが、どうにか堪えて腕の中に少女を受け止めた。
 「マ、マリア様」
 「あら、そんな呼び方よしてちょうだい。呼び捨てでいいのよ、お姉様なら」
 「え、いえそんなわけには…って言うかお姉様って」
 ふるふる御免とかぶりを振るマリア姫が、彼女の手を引いて強引に長椅子に座らせる。戸惑うばかりのキョーコは、されるがままだ。
 皇孫がにこりと笑む。
 「あのね、私、あなたがクオン様の奥様だって知って…すごくショックだったけど、でも、落ち着いたらあなたならいいかって思ったの。だってあなたは、クオン様を守ろうとする人だもの。男に頼りっきりで、毟ることしか考えてない女と違って」
 「どっどこでそんな言葉覚えたんですか」
 どうも、深窓の姫君のはずがやけに世故に長けている。焦る庶民娘に、幼い皇族は、それは可愛らしく微笑んだ。
 「ところで、今日会いに来てくださったのは、クオン様のことでかしら?」
 真剣な表情に変わるのにつられて、パン職人も眉宇を顰めた。
 「ええ…実は、お願いがあって」
 一つ息を入れ、彼女は皇孫の手を取り押し戴く。
 「あの、私…軍団に、入りたいんです。補助兵でも付き人でも、何でもいいですから。どうか、お力をお貸し下さい…」
 「ええっ!?」
 さすがに驚くマリア姫は、今更のようにキョーコの全身を凝視する。勿論、女はレギオンに入れない。だからこそ方法がないか探りに来たのだ。
 暫くしてキョーコが本気であると悟ったらしい、皇帝の孫娘は幼い顔に戸惑いを濃く浮かべた。
 「それ…おじい様にも内緒で、ってことよね?」
 「ええ…」
 あの皇帝ではあるが、さすがにこれは許容されると思えない。それはもう一人知っている高位の人物、クーヤヌスでも同様だ。主に、キョーコ自身の安全を慮って、だろうけれど。
 なにしろ古代ローマ、しかも軍だ。男装は当然としても、そうしていれば性的な意味だけでも安心とは行かない。だから、悔しいけれどいずれかの権力の庇護は必要なのだ。そしてそれを与えてくれそうな人物が、今の彼女にはこの少女くらいしか思いつかない。
 雲に手を伸ばすような心地でキョーコは問う。
 「無理、でしょうか」
 マリアが小さく呻いた。
 「私だって、力になりたいのは山々だけど…」
 「そうですか…」
 キョーコはわかりましたと頷き、力なく立ち上がる。
 「他に方法を探します」
 こんな幼い少女に、しつこく食い下がることもできない。辞去しようとするのを、慌てる皇女に引き止められた。
 「ちょっと待って!ね、ちょっとだけ」
 マリアは近侍に目配せする。心得顔の女官が一旦退出し、ほどなく一抱えほどの袋を盆に載せて戻って来た。
 「せめて、これを持って行って」
 皇孫に押し付けられた袋はやたら重く、中でぢゃりと音がする。
 「え、これ…」
 恐る恐る覗いてみれば眩い金色の輝き。ずっしり重い高額貨に、バリバリの庶民はひいと飛び上がった。
 「いっ戴けませんこんな!!」
 突き返そうとする手を、もっとずっと小さな手が押し留める。
 「だって、何をするにも準備は必要だし、準備には先立つものが必要なのでしょう?しかもクオン様を守るためなんですもの、惜しんじゃ駄目だわ」
 「え、えっと…」
 どこまでも世知ある少女にきっぱり言われ、キョーコはもう、こんな高額貨は市場では使えないとも言い出せなくなった。






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フォルトゥナタ(39)

 がろがろがろ…
 遠雷に似た音が次第に近づいて来る。そっと寝台を降りようとする背を、溜め息に近い声が追った。
 「ん…キョーコ?」
 「すみません、起こしてしまいましたか」
 眉尻を下げながら振り返ると、もそもそ身を起こしたクオンティヌスが軽くかぶりを振る。
 「いや、車の音で先に目が覚めたんだ。今日は仕入れの日なんだね」
 「すみません」
 市内は日中の車の通行を禁じられている。ために輸送の類も夜間に行われることが多く、石畳の暗路に響く車輪の音はローマの名物もしくは公害となっていた。
 「君が謝ることはないよ」
 金の髪の騎士はすこし笑って、自分のせいで安眠を妨害したかと気にする妻の頬を撫でた。
 「行っておいで。もし何かあったら、大声で呼ぶんだよ。すぐに駆けつけるから」
 「いつものお仕事ですし、大丈夫ですよ」
 優しい微笑に添えられた一言に、キョーコはほんのり頬を染めた。キョーコが自分の仕事にクオンティヌスを関わらせることを好まない、と彼は知っている。だから付き添うとまでは言わないが、それでも心配は残るのだろう、出過ぎない範囲で気遣ってくれることが嬉しい。
 「すぐに戻ります」
 僅かに迷ってから、彼女は夫の胸に身を寄せた。反射のように伸ばされる手をするりとかわして立ち上がる。
 「待ってるよ」
 苦笑しながらも優しい声を背に寝室を抜け出し、壁の灯皿から手燭に火をうつして暗い廊下に出た。温かな寝床と温かな体温から離れ、夜気が肌に沁みる。いつの間にか彼の懐に慣れてしまった自分に赤面しながら、キョーコはほてほてと勝手口へ向かった。





 「注文は、これで全部かい。いつもよか多めだね」
 松明をかざす先には、小麦の袋が積み上げられている。荷運びの車夫に、キョーコは愛想よく頷きかけた。
 「ええ、ありがとうございます。夜分にお疲れ様です」
 「なにね、慣れてるよ。夜しか車が使えねえんだから、しょうがねえやな」
 「大変ですねえ」
 「受け取る方だって一緒だろ」
 中年の車夫はあっさり笑って返し、それからふと頭の後ろに手を当てた。
 「あーけど、ここんとこ仕事が増えててちっとしんどいってのはあるかな…そら、例の、皇帝陛下の東征の影響でさ」
 「…ええ…」
 キョーコが複雑に声を落とす。自分が常より多く小麦を仕入れたのも、まさにそのせいだ。軍旅に就く夫と、その部下に持たせる堅パンを焼こうと。できるならば、クオンティヌスが陣中で食べるパンのすべてを焼いて持たせたいくらいだ。
 「そう言や」
 溜め息をつく思いの彼女の様子に何か感じたか、車夫はふと目の前の屋敷を見上げ、それとキョーコとを見比べた。
 「ここの旦那さんも行くんだよな」
 やや遠慮混じりに言うのへ、パン職人が黙って頷く。すると親爺は急に慌てたように空々しい笑い声を洩らした。
 「そりゃ心強いこった。天下のイリストゥリス様々のご出陣とあれば、もう勝ったようなもんじゃねえか。なんか物騒な雰囲気があるとかって話だが、そんなものはあのお人の剣が叩っ斬ってくれるだろうよ!」
 あはは、と笑う声を聞き流してキョーコが目を剥く。
 「物騒な、って」
 「あ?ああ…」
 中年男はしまったと言いたげにあさってへ視線を飛ばした。娘はそれを追って一歩踏み出す。
 「何か、そういう噂でもあるんですか?」
 重ねての追及に車夫は後ろ頭をがしかし掻いて、いやなアと呟いた。
 「だから、まあ、ただの噂だって。どこやらの隊、つうか貴族が剣士を集めてるだの、毒を仕入れただの、さ」
 「ど、く」
 キョーコは口先で繰り返した。
 「蛮族相手だから、向こうがそういうの使って来るのかもな。どっちが使うモンでも、いい感じはしねえが…」
 後半はもそもそと語り、車夫はまた後頭部を掻き回す。そこで、おっとと呟いた。
 「そろそろ次んとこ配達に行かねえと」
 「あ、はい…ありがとうございました」
 「クオンティヌスの旦那に、ご武運をつっといてくんな」
 車夫は荷車の轅を取り、ひょいひょいと頚木まで辿る。ひら、と手を振ると、そのまま歩き始めた。ガラガラと騒音が上がる。
 去っていく後ろ姿に、キョーコは機械的に頭を下げた。轍を辿る車輪が視界に入るが、彼女はそんなものを見てはいなかった。彼女の頭の中はいま、別のことに占められている。
 (毒…)
 もちろん、危険な言葉だ。しかし今の彼女は、それ以上に言い知れない不安を誘われる。そっと目を伏せると、彼女だけに向けられた熱情が脳裏に蘇った。
 (君こそが…)
 キョーコはきゅうと唇を結ぶ。彼は、どうして気付かないんだろう。彼女が彼にとっての運命なら、その逆もまた然りだと。
 何をしてだって護りたいのだと。
 「……」
 では、何ができるだろうか?
 キョーコは胸に溜めるように夜気を吸い込み、ゆっくりと顔を上げる。その瞳に、硬質な意思の光が瞬いた。








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